物語の兵站術

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山田尚子が監督を務めたアニメ『平家物語』は、平安時代末期の戦乱の世を舞台にした同名の軍記物語を下敷きにしているが、実際の戦闘シーンは必要最小限しか描いていない。富士川の戦いで平家の軍勢が水鳥の羽音に驚いて遁走する挿話や、一ノ谷の戦いで義経が鵯越の崖を下る挿話など、いくつかの有名な場面のみが、いずれも非常に短いシークェンスで取り上げられている。『平家物語』屈指の逸話として知られる、屋島の戦いにおいて那須与一が船上の扇を射る場面に至っては、わずか二〇秒ほどがあてられるのみである。そして戦闘シーンのほとんどは、悠木碧演じる主人公のびわが何処とも知れない暗闇のなかで無心に弦を爪弾く映像を挿し挟みつつ、彼女の吟声と琵琶の音を中心とした聴覚的表現を主軸に構成されている。

このような構成が選択された理由は、作品の冒頭から既に示唆されている。『平家物語』という、もともとは琵琶法師たちによって語られはじめ、多くの異本を生み出しながら読み継がれ、近世以降は歌舞伎や人形浄瑠璃や小説や映画といった形式で繰り返し翻案され続けてきた、そして今日においても義務教育の課程で必ず取りあげられるがゆえに誰もがその大筋を知っている物語を、二〇二〇年代においてアニメという形で描きなおすことにどれほどの意義があるのか──と自省的に問いかけるように、物語の結末が序盤から執拗なまでに暗示されているのだ。第一話の冒頭で主人公のびわは、平家の武士に斬殺された父の血飛沫を浴びながら、皮肉にも自身が行動をともにしてゆくことになる平氏一門の運命を幻視する。その直後に、女性琵琶法師の朗々とした声が、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」と響きわたる。さらに、それに続いて流れる本作のオープニングテーマでは、冗長に思えるほど説明的な詩句──「最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても 今だけはここにあるよ」(羊文学「光るとき」)──が歌われる。本作は、物語の結末が視聴者の大半にとって既に明らかなものであるがゆえに、最終的な勝敗を伏せて緊張感をもって戦闘場面を描き、結末を用意する見せ場としてそれらを提示することを、予め避けなければならなかったのである。

こうして戦闘場面の描写が後景に退くのと引き換えに、平氏が朝廷や寺社との軋轢を経て戦へと向かっていく経緯や、そうした状況に際して平家の人々が抱いていた精神的葛藤、そして彼ら彼女らが都から落ちのびてゆく過程が前景化される。山田尚子は完成後のインタビューのなかで、『平家物語』が琵琶法師たちによって語り継がれてきたことを重視し、この物語を「語る側」の視点から再解釈したと述懐している(ニュータイプ 2022, 152)。この着想を基点に、脚本を担当した吉田玲子は、びわという架空の琵琶法師の少女を主人公にし、彼女と平家の人間的交流の移り変わりをプロットの主軸とした。本作において、戦闘の背景をなす平家の人々の心の機微や日常生活が細やかに描かれているのは、このような制作上の狙いを反映したものなのだ。


『戦争と映画』をはじめとする複数の著作でポール・ヴィリリオが論じているように、近代以降の戦争においては視覚メディアおよび火器の性能と運用速度の向上とともに、軍事的な知覚の兵站術ロジスティクスが誕生した。そこでは望遠鏡、写真、ヴィデオ、空撮、照準装置、そして無線通信やレーダーなどのメディアによって、「〔戦場の〕映像の補給が武器弾薬の補給と同等の重要性をおびる」ことになる(ヴィリリオ 1999, 11-12)。特に一九世紀以降の戦争では、作戦決定の中枢を敵軍から隠蔽しつつ、それを担う機関が「実際になにひとつ見ることなく、いかにして周囲の状況を把握するのか、という問題」(ibid., 154)が生起していた。『平家物語』においてびわという予見者・霊媒メディウムが遂行していたのはこの任務にほかならない。先に述べた通り、彼女は物語が始まった時点で、未来を視る能力を右眼に宿しており、物語の中盤では左眼で亡者の霊を視る能力を平重盛から引き継ぐことになる。この力能によって、びわは実際の戦闘場面に立ち会うことなく、平家の興亡を見つめ続けるのである。

びわの能力は、上手く利用すれば平氏の運命を塗り替えるほど強力なものであったはずだが、彼らがこれを自軍の戦術や戦略に組み込むことは最後までなかった。そもそも、このアニメにおいては、平家の兵力運用については時折わずかな言及がなされるものの、彼らが講じた兵站術ロジスティクスの詳細な描写は皆無と言える。史実に即して言えば、治承・寿永の乱では以前の戦争と比べ動員兵力が飛躍的に増大していたため、平家の側も、火打城合戦での要害の構築とその際の杣工の動員や、朝廷の許可を得たうえでの行軍中の徴発と追捕(街道筋の村々に押し入っての食糧や資産の調達)など、一定の新規性が認められる兵站作戦を展開していた(川合 2010, 72-151)。だが、本作にはそれらについての描写は見られず、びわが平家の作戦に協力することは最後までない。

びわという予見者・霊媒メディウムは、敵軍を破壊する兵士や兵器の運用のために用いられるのではなく、戦況を予見=監視するという知覚の兵站術ロジスティクス上の任務を、戦術および戦略上の実効性を持たない形でのみ担うことになる──「わすれないでおこう、戦争機械とは破壊機械である以前に「監視機械」である」(ヴィリリオ 2003, 92)。びわの眼に映るのは、滅亡に至るまでに平氏一門がなしえたなけなしの抵抗と、それに前後する彼ら彼女らのささやかな日常生活、そしてそのあいだで生じる感情と情動の揺れ動きに限定される。父を失ったびわは平重盛に拾われ、その子供である維盛、資盛、清経らとともに成長し、「平家にあらねば人にあらず」と言われた一門の絶頂期を目にすることになる。しかし、他勢力との折衝を担っていた重盛を失った後、平家と朝廷や延暦寺や南都の関係は悪化していく。清盛が病死すると状況はさらに悪化し、源氏一族を中心に構成された討伐軍から逃れようとする平家一族は安徳天皇を連れて都を落ち、各地を点々とすることになる。倶利伽羅峠の戦において維盛率いる軍が義仲軍相手に七万の兵を失った後、一族が福原に落ちのびた時点で、もともと「十万もいた兵がいまや七千騎に」(第八話「都落ち」)減り、一ノ谷の戦いでは退却に失敗した平敦盛が熊谷直実との戦いで命を落とし、びわと特に交流の深かった維盛や清経は未来を悲観して入水する。

こうした破滅の過程に、びわは関与することを許されず、視聴者と同じようにただ傍観することしかできない。当初から悲劇的な結末を見据えつつも、徳子や資盛を中心とする登場人物たちの朗らかさや時折挿入されるアップテンポの劇伴によって明るさを与えられていた作品の雰囲気は、回を重ねるごとに重苦しくなってゆき、視聴者は親しみを深めつつあった者たちの悲惨な運命をびわとともに見届ける必然性を否応なしに意識するようになる。つまり、びわという「監視機械」に与えられていた任務とは、視聴者と同じように平家の滅亡という結末を知りながらその全ての過程を見守り、現実世界の視点と作品世界の視点が統合された視点ユニファイド・パースペクティブを生み出すことだったのである。


実父の仇である平家一門を憎んでいたはずのびわは、重盛たちとの温かな交流を経て、彼ら彼女らが待ち受ける運命に懊悩するようになる。もちろん、これはびわと視点が統合されている私たち視聴者に向けて突きつけられた問いでもある──悲劇的な結末が既に分かっている物語を、どのように受け止めればよいのか。

びわはこのことに悩み続けながら一時的に平家のもとを離れ、生き別れた白拍子の母を探す旅に出る。一度は越後まで赴くも、母らしき人物は既に京に戻ったと聞かされた彼女は、都に引き返して義仲の軍勢から逃れた後、ようやく丹後で母に再会する。びわの母は、娘と同じく未来を視ることのできる浅葱色の瞳を持っていたのだが、盲目の琵琶法師の夫と娘を見捨てて越後平氏の城資永の側室として京を離れ、主人の死後にこの地で隠棲していた。こうした経緯を聞いたびわは、なぜ自分たちに会いに来てくれなかったのかと激昂するが、彼女の母はただ、「祈っていた」という言い訳にもならない言葉を口にする。それを聞いたびわは、避けようのない滅びを見据えることしかできない自分に与えられていた真の任務を自覚する。

平家の行く末を見届けようと思う。見届けて、祈りを込めて、琵琶を弾く──びわにもできることが見つかった。
(第九話「平家流るる」)

ここでびわが決意した「祈り」は、死者を弔いその魂を鎮めるための宗教的な儀式としての意義を超えて、『平家物語』において唯一、実効性を持つ知覚の兵站術ロジスティクスとして機能することになる。びわは眼と脳で平氏の栄華と滅亡の過程を記録し、琵琶を爪弾く指先と喉頭によってそれを歌物語というデータ形式に変換して周囲へと発信する。上述の通り、このアニメのなかでは戦闘シーンの大部分が彼女の吟声と琵琶の演奏に即して構成されるのだが、これは脚本上で戦闘シーンの重要性を相対的に下げるための演出上の工夫であると同時に、『平家物語』が成立した当時の民衆の体験に寄り添おうとする試みであったと考えられる。書物というメディウムが大量に流通していたわけではない状況で生活を送っていた中世の人々は、歌の律動と琵琶の音色によって、平家一門の激情や絶望、源氏一門の勝利と高揚を追体験していたのである。

ただし、この任務に就くのはびわという個人のみではない。『平家物語』は、信濃善治行長という人物が書き残しそれを盲目の法師に広めさせたとされている(『徒然草』二二六段)がその真偽は定かではなく、複数の法師や僧が語り継ぐなかで、現在に至るいくつかの形をとるようになったと考えられている。いずれにせよ、無数の語り手たちが自らの口を通して様々な登場人物の声を代わる代わる再現し、時間と空間を超えて多声的に律動化されることで、この物語は反復され続けてきた。びわは平家の滅亡を監視し終えた際に視力を失い、平家の物語を歌い続けるなかで髪の色素を失うのだが、これは彼女が、悲劇を声によって伝達する複数の無名の法師たちのネットワークの一部になったことを暗示している。このような時空間を越えて存立し続ける分散型のネットワーク上に保存された平家の武士たちは──彼らの家族や敵もろとも──肉体を失った後も存在し戦い続けることになった。

『平家物語』の最終話は、戦禍を生き延びた者たちが「祇園精舎の鐘の声」という章句を繰り返し唱える音声に合わせて、今際の際にある徳子の手から延びていると思しき五色の糸が画面の下方へ向かって辿られた後に、画面を左右に横切る琵琶の四本の白い弦に取って代わられる映像で幕を閉じる。これは、びわと視聴者が目にしたような平氏一門の生活や戦の情景が──吉田博の版画作品を思わせる抑制のきいた──色鮮やかな形で再現されていることの逆説的な表現であり、死に向かう平氏一門の生が物語へと変換されることで数百年の時を越えて今も現前していること、つまりは平家の兵站術ロジスティクスが今もなお続いていることを示唆している。私たちは、教科書に印刷された古典語の韻律の中に、歌舞伎俳優たちの肉体の躍動の中に、そしてこのアニメの中に、平家とそれを取り巻く人々の姿を見聞きすることで、その兵站術ロジスティクスに巻き込まれているのである。


このようにして現代まで語り継がれてきた『平家物語』は、私たちの世界においても、文字通りの兵站術ロジスティクス上の機能を担ってきた。兵站術ロジスティクスとは、その語義に即せば当然ながら、戦士と戦線を維持するための、それ自体は非戦闘的な技法である。平家一門の悲劇でありかつその討伐軍である源氏一門の英雄譚であるこの物語は、声から声へ、そして声から書字へ、さらに書字から音楽や図像や映像へと再コード化=記録レコーディングを繰り返しながら、戦士と戦線を維持する装置として作用してきたのだ。

『平家物語』はその成立当初から、琵琶法師たちによるコード変換や寺社および幕府といった政治的権力によるアーカイヴ化を通して、戦争を廃棄しつつ保存する作用を帯びていた。この物語は、芸能民としての性格を持っていた琵琶法師たちと、土地々々を遍歴して説話や念仏を語り伝えた僧侶たちの交流のなかで一三世紀の初頭には成書化されつつあったと推定されるが、治承・寿永の乱の後、現世に生き残っていた源氏を中心とする権力者たちと民衆にとって、平家の恨みを鎮め平和を祈願する機能を託されていた(兵藤 2009, 51-90)。しかし同時に、特に承久の乱を境に朝廷の衰退と武家政治の台頭が色濃くなっていた時節においては、政治的・軍事的教訓を引き出す役割も期待されていた(大津 2013, 13-14)。また、鎌倉時代末期において北条氏に対する反乱軍を率いた足利尊氏と新田義貞はともに清和源氏の嫡流であり、彼らが北条の滅亡後も後醍醐天皇の権勢を抑えて全国規模の覇権闘争を展開することができたのは、当時の武士たちに源平交代の物語が強く根付いていたためと考えられる(兵藤 2009, 144-146)。さらに、明治維新以降次第に「国民的叙事詩」として持ち上げられるようになったこの作品に収められている逸話の一部が、太平洋戦争期においては尽忠報国を鼓舞するための装置として利用されたことはよく知られている(大津 2013, 110-170)。つまり『平家物語』は──多くの近代国家が自国の古典文学を国民精神の象徴として位置づけてきたのと同様に──新たな戦争を焚きつけるために利用されてきたのである。

このように、『平家物語』はしばしば兵站術的な目的のもとで軍記物語としての特性を強調する形で読まれてきたのだが、山田尚子監督のアニメは、この物語に元来込められてきた平和への祈りに焦点をあてることで、そうした読解姿勢から抜け出すことを狙っていたのではないだろうか。アニメの原作となった現代語訳版『平家物語』を執筆した古川日出男は、作品の完成に際して「日本人の誰もが知るはずの「平家物語」を、ほとんどの人間は誤解していると私は思う」と述べ、「通読してみれば、そこには「戦争をすることは悲しい。恐ろしい」と訴える感情が充満して」おり、「「戦死者たちを鎮魂しなければ。あらゆる死者たちを弔わねば」との切実な思いにも満ちている」というコメントを寄せている(コミックナタリー編集部 2021)。また古川は、この作品のなかでは「戦場では主役となる男性たち以外に、そうした現場には立つことの少ない女性たちのドラマも描かれている」とし、「「平家物語」の主役は女たちでもある」と述べていた。脚本担当の吉田玲子は古川の原作を読んだとき、「平家の若者たちの中にも壇ノ浦の戦いよりも前に心が折れて自ら命を絶つ選択をした者がいた」ことに衝撃を受け、「彼らが何を感じて、そこに至ったのかを語らねば」という想いに駆られたという(メディアワークス 2022, 150)。この作品は、「驕れる人も久しからず」と勧善懲悪を謳うわけでもなく、また尽忠報国を鼓舞することもなく、ただ──前線に立った男性だけではなく、女性や子供も含み──戦争に巻き込まれたすべての人々への祈りを描こうとしているのだ。


吉田玲子は、アニメ『平家物語』の脚本を書きあげた時、それが「物語を語ることへの再宣言」であると感じたと述懐している(コミックナタリー編集部 2021)。彼女の言う通りこの作品は、暴力による悲劇的な運命に直面した人々にとって、物語というものが果たす役割を問いかけていた。そして、このアニメが放送されてから間もない二〇二二年二月にロシアのウクライナ侵攻が始まり、それに連鎖するようにして国内外で凄惨な事件が相次ぎ、この作品の問いかけは予期せぬ重さを帯びてしまった。

ここまで私たちがアニメ『平家物語』に即して述べてきたように、物語という形式は、圧倒的な暴力を前にした者たちが、自らの存在を残し平和への祈りを広げるための兵站術ロジスティクスとして機能する。破滅を予感して口にされた祈りが文章や音楽や映像といったメディアを介して物語になり、それを受け取った人々の心を通してさらに別の誰かに伝えられ、そうした過程が繰り返されることで、平和への祈りは長大な時間と広範な空間を跨いで語り継がれることになる。このような兵站術ロジスティクスの利点は、『平家物語』が声と琵琶という原始的なメディウムとともにはじまったように、高度で大規模な軍事的・技術的装置がなくても実行可能なことである。それゆえに、物語とは、強大な暴力に直面することを強いられた人々に残される抵抗手段の一つとなる。「平和」という言葉に感じ取られうる素朴さを意識しつつも、日々鳴り止むことのない暴力の前で生み出され続ける物語を受け取り、そこに込められた祈りを受け止めそれを他の誰かに託していくことが、私たちに求められている。

しかし、それが兵站術ロジスティクスとして機能する以上、物語とはそれ自体が暴力の支えにもなりうる。国家や企業といった主体も、物語を利用することで人々をさらなる暴力へと動員することができる。また、『平家物語』のように、元来は平和への祈りも込められていたはずの物語を利用することで、新たな破壊や差別を導くことすらできるのである。それゆえに、「今日では、新たなメディアの通常の浸透力・・・・・・、情報の速さを意のままにしうるのだから、全体主義的生存圏を創造するのに、もはや機械化されたミサイルによる大々的侵略に、電撃戦における戦車や急降下爆撃機ストゥーカに頼る必要はない」(ヴィリリオ 2007, 68)のである。そうであるならば、文学や音楽や映画やテレビ番組といったメディアを通して暴力を再生産する物語を、私たちは常に批判的に捉え直す必要があることは言うまでもない。

物語を享受する時、あるいは物語を研究する時、それらが暴力と取り結ぶアンビヴァレントな関係を常に意識する必要がある。物語はどのように暴力に抵抗したり、あるいは逆に、暴力を再生産するのか、そうした抵抗や再生産はどのような政治的趨勢に接続されているのか、常に警戒し省察しなければならない。そのためには、私たちを取り巻く文化や技術に批判的ないし実証主義的に向き合い、それらが媒介メディエイトされる形式や様態をめぐる諸理論を検討し洗練することが不可欠となる。『メディウム』がそうした総合的な取り組みの場のひとつとなることを祈る。

二〇二二年 晩秋


参考文献

ヴィリリオ、ポール『戦争と映画──知覚の兵站術』石井直志・千葉文夫訳、平凡社ライブラリー、一九九九年。
───『ネガティヴ・ホライズン』丸岡高弘訳、産業図書、二〇〇三年。
───『民衆防衛とエコロジー闘争』河村一郎・澤里岳史訳、月曜社、二〇〇七年。
大津雄一『『平家物語』の再誕』NHK出版、二〇一三年。
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ──治承・寿永内乱史研究』講談社学術文庫、二〇一〇年。
コミックナタリー編集部「TVアニメ「平家物語」高野文子らスタッフコメント公開、新規ビジュアル&15秒のPVも」、『コミックナタリー』、二〇二一年(https://natalie.mu/comic/news/445291、閲覧日:二〇二二年十月二六日)。
兵藤裕己『琵琶法師──〈異界〉を語る人びと』岩波新書、二〇〇九年。
ニュータイプ編『平家物語──アニメーションガイド』KADOKAWA、二〇二二年。

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